新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
新年早々、野暮を承知でお話ししますが、吹田教会では昨年、実に多くの方がお亡くなりになりました。その際、葬儀を挙行する度に感じることがあります。それは葬儀に与り、共に故人とその遺族の方々のために祈って下さる信徒の数が、以前と比べかなり少なくなったということです。実際のところ、共稼ぎ家庭が当然の社会の中で、平日の日中や夕方に教会に集うことは難しい。とはいえ、多くの信徒の方が口にする言葉が、「知らない人の葬式だから(行かない)」ということであれば、私たちはキリスト教(カトリック)葬儀について、大変な誤解をしていることになります。確かに世間一般の常識に於いて参列の可否は、故人との関わりに大きく左右されると思います。しかしながらキリスト教葬儀については故人との関わりより、キリストとの関わりがより重要です。というより、キリストとの関わりが全てと言ってよいかもしれません。主と関わりがあるからこそ、正確に言えば、主に於いてひとつのからだであるからこそ、故人と関係のない信徒は誰もいないということです。
人生の旅路の中で最も神の力、そしてまたその慈しみと慰めを必要としているのは、人の死という出来事だと思います。だからこそ教会はその時、神の憐れみを最も必要としている人たちに寄り添うよう、主御自身から遣わされているのです。その意味で私たちは、葬儀の単なる参列者、傍観者ではありません。まことの神であられるお方が故人と遺族の方々の傍らに立つために、御自分の霊(聖霊)に於いて私たちをひとつのところに集め、目に見えるキリストの肢体(教会、共同体)としてこの地上に示して下さる道具(秘跡)であるということをよく理解する必要があると思います。教会(共同体)は、復活したキリストの肢体です。それ故、教会(共同体)の祈りは主御自身の祈りでもあります。それを目に見えるしるしとして示すのが司祭の奉仕であり、司祭は常に教会(共同体)との関わりの中で、その務めを果たしているということです。そのため、共同体(教会)の力が弱ければ(信徒が集まらない、分裂している・・・)、司祭の奉仕を通して示されるキリストの働きも見えにくくなります。
教会(私たち)の祈りは、キリストの祈りです。キリストの祈りだからこそ、真実に人を救い癒やすことが出来るはずです。そのために、どうか教会に集って下さい。故人のため、遺族のため、神の憐れみを祈って下さい。お願いいたします。