《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。》(ヨハネ13章34節)
キリストは私たちを愛し、御自分の愛の内に私たちが留まるよう、お命じなりました。(ヨハネ15章9節)主の愛に留まるということは,主の掟を守ることであり(ヨハネ13章10節)、それは私たちが互いに愛し合うこととに他なりません。ここで大切なことは、これが《新しい掟》であるということです。実のところ、愛することを命じる戒めは、旧約聖書にも見つけることが出来ます。と言うより、信仰の有無にかかわらず、人は愛し愛されることを求め、掟が命じるまでもなく、誰もが愛の内に生きたいと願っているはずです。《互いに愛し合う》、これは素晴らしいことです。ことさら《新しさ》を強調せずとも、誰にでも受け入れられる規範として、広く認められていると思います。しかしながらこの掟は、《新しい掟》です。信徒も含め、多くの人たちが、この《新しさ》を見落としているのではないでしょうか。と言うのも、この掟は、そもそも主自らが弟子たちの足を洗ったという前例のない出来事に基づくものであるからです。主は御自分の者たちへの愛を、彼らに僕として徹底的に仕える姿を通してお示しになられました。その意味で愛するということは、《仕える》ことと同じです。ここにも、この戒めの新しさが示されています。私たちは主に愛して頂いた(仕えて頂いた)者として、その愛を記憶し続けなければなりません。事実、主を愛を覚え、これに感謝するからこそ、私たちは互いに愛し合わざるを得ないのです。
新しい掟は、互いに仕え合うことを命じる掟です。このキリストの命令に生きる者の集いが教会であるとするなら、奉仕は私たちにとって、本質的な営みとなるはずです。その意味で奉仕者がいない、あるいは奉仕者が生まれない、育たないという現実は、教会そのものの危機を意味します。実際、奉仕者のいない教会に、聖霊の働きを認めることは困難です。何故なら聖霊は、御子の霊、仕えられるためではなく仕えるために来られた(マルコ)10章45節)キリストの霊だからです。キリストを肉眼で見ることは出来ません。見えるのは聖霊の働きであり、それは奉仕と密接に繋がっています。仕え合う者たちがいれば、そこに主の霊の働きがあり、私たちはその霊の働きによって、確かに主御自身と出会っているのです。キリストとの出会いというと、何か特別な体験のように思われるでしょうが、私たちはこの新しい掟に生きることによって、いつでも主と出会っていることを忘れてはいけないのです。
主は、御自分に従う者たちに仕えて下さるお方です。僕という姿で私たちと関わりを持つことを、喜びとされたお方です。(ヨハネ13章8節)唯一まことの神であるお方が、私たちの僕として仕えることを望んでおられるなら、キリストと結ばれている私たちもまた、兄弟に仕えざるを得ません。既に足を洗っていただいた後で、《足だけでなく、手も頭も》(ヨハネ13章9節)といつまでも甘え続けるのは、いかがなものでしょうか。信仰生活(教会生活)の中心には、、《奉仕》がある。この当たり前のことを実践出来る共同体となるよう、信徒の皆さんのより積極的な協力をお願いしたいと思います。