ある日のこと、バスに乗り合わせて御蔵山の修道院へ帰る途中、何気なくバスの窓越に道端を見下ろすと、バスのすぐ下の溝の中に小さな女の子が遊んでいた。少し乾いたどぶの泥を赤いおもちゃのスコップで掘り起こして丸くこね、できあがった泥まんじゅうを2つ、3つセメントの道路わきに並べている。その無心な表情には、ほこりも騒がしさも車の危険さえもまったくないかのようであった。目に映った一瞬の情景とは、ただそれだけのことである。だが、それが今に至るまで印象に残っている。無心な子どもの姿に見たあそびの世界の不思議。バスの窓をよぎる一瞬の光景であったが、いつまでもまぶたに焼き付いて消えない。その幼子の姿、大人の中にいつのまにか忘れられた大切なものを思い出させ考えさせてくれるものであった。だれにとっても、しょせん人生はどぶ泥であるならば、知るべきことはこの泥を避けようとするのではなくて、泥の中に入り、泥に染まらず、泥とあそぶことである。あの小さな少女のように。
これは、カルメル会の奥村一郎神父様が書かれた「神とあそぶ」という本の一文です。見る人が見ると物事が大きく違うなと感心しました。私たち凡人なら手も服も汚してお母さんが大変だなーとか、せいぜいあの子は手をつかって脳に刺激を与えて自分を成長させる努力をしているのだなーぐらいでしょう。その人が何を日々大切に生きているかによって、出来事の見方が大きく異なることを思い直される一文であったと思います。
福音書の中に目の見えない人が、イエス様に「見えるように」と願っている箇所があります。私たちも本当に心の目を開いてもらい、日々の出来事の中に隠された神の働きを見ることが出来るよう祈りたいものです。