昨今、教会を取り巻く現状は、厳しいの一言です。随分前から
《教会の危機》が叫ばれていますが、信徒の教会離れ、召命数減少の勢いは止まりません。とりわけ、かつてキリスト教国と呼ばれた欧州や北米は言うに及ばす、中南米の国々に於いても状況は悪くなる一方です。今後も教会や修道院の閉鎖は続いていくでしょうし、過去のスキャンダルに対する賠償等で、破産する教区、修道会も出てくるでしょう。世俗化と言ってしまえばそれまでですが、教会は信徒の間でも明らかに相対化されています。社会が変わってしまったからです。
いきなり悲観的な話から始めましたが、現状は決して楽観を許しません。亡くなる方は増えていますが、洗礼数は伸び悩んでいます。教会を訪ねて来る人はいますが、殆どの場合、信仰以外の動機によるものです。当然ですが、受洗者なき教会に司祭、修道者が生まれるはずもなく、相変わらず日本の教会は、外国人宣教師の助けなしには自立出来ずにいます。結局のところ、北アメリカや西ヨーロッパからの宣教師が、アジア、アフリカからの宣教師に入れ替わっただけの話です。多様な文化、歴史的背景を持つ多くの外国人宣教師に支えられていることは、日本の教会の豊かさでもありますが、邦人司祭が確実に増え続けない限り、それは決して《日本人のもの》にならないでしょう。バタ臭さと共に、何となく体に合わない服を着せられているような着心地の悪さと、この社会の中でのヨソ者感、居心地の悪さはその《しるし》です。とはいえ、日本の教会が日本人のものとなるように努めたくても、グローバル化のうねりの中で増え続ける外国人信徒への対応等に追われている状態では、それもまた叶いません。加えて昨今のナショナリズムへの反動からか、《日本人のもの》という表現そのものを否定してしまう人たちもいます。勿論、《日本人だけ》の教会という考え方は間違っていますが、日本の教会が真実に日本人のもの、つまり《日本人の教会》にならない限り私たちは、日本に於いても、また全世界のカトリック教会の中にあっも、いつまで経っても結局は《刺身のつま》、単なる添え物でしかないような気がします。
あれこれ考えると気が滅入るばかりですが、とどのつまり、《自分のことは自分でする》しかありません。《信者が増えない、司祭もいない。お金も足りずに何も出来ない。それなら司教様や他の神父様がなんとかしてくれるだろう。》ではなく、信徒が増えないなら、自分たちで増やす。司祭不在なら、自分たちの中から生み出す。《自分のことは自分でする》という、ある意味で当たり前のことを私たちは忘れていないでしょうか。もし本当に、お金も足りず何も出来ないとしたら、それこそ必死に信徒を増やすこと、司祭を生み出すこと、ただこれだけに集中すべきです。繰り返しますが、未だ外国からの宣教師に頼っているようでは、《自分のことは自分でする》教会とは言えません。自分のことは自分でする。この当たり前のことが出来るようになった時、日本の教会は真に《日本人の教会》となり、《日本人のもの》と呼べるようになると思います。