先月29日から待降節
が始まりましたが、もうすでに、街の周囲では豪華なリースやイルミネーションが飾られ、教会で飾る必要がないほどで、クリスマスが今にも始まるような感じ
です。けれども、私たちにとっては「待つ」準備が必要です。それは、待降節が二千年前にイエス・キリストが私たちのもとに来られた出来事(主の降誕)を記
念するための準備期間というだけではありません。主イエスが再び来られ私たちの救いを完成される時を待ち望む期間でもあります。それは、旧約の民イスラエ
ルの人々を通して世界に語りかけた神様の声にもう一度、耳を傾けることでもあります。
ところで、この「待つ」という態度は、今の私たちの間においてはあまり注目されないように思います。また人々が大きな関心を払って考えるようなことでも
ありません。ほとんどの人は、「待つ」ということはじれったくって、時間の無駄のように考えています。それは「とにかく動け! 何かしなさい!
自分が一角の人間であることを示さなければだめだ。」と言うように絶えず私たちに呼びかける時代精神と関係しているように思います。また私たちが生きてい
る今の時代は待つことをとても困難にしています。それは私たちが「恐れ」というものにとりつかれているからではないでしょうか。今の私たちを取り囲む風潮
の中で最も支配的な感情のひとつは漠然とした「恐れ」ではないでしょうか。恐れに取り付かれた人は待つことに耐えられなくって、今おかれているところから
逃げ出したいと思います。
さて、聖書の中で待つ人のふさわしい姿が現れています。それはマリア様の姿であると思います。マリア様は何らかの仕方で天使から「マリア、恐れることは
ない。あなたは神から恵みをいただいた。」という言葉を耳にしました(ルカ1:30)。このことから、マリア様は何らかの新しい出来事が自分に起こること
を待っていたことがわかります。そしてこの約束の確信が彼女の信仰を養い育て、さまざまな困難なことがあっても、そこに留まることを可能にしました。そし
て神の約束はマリア様の中で形あるものとなって、彼女を通して実現しました。待ち望むことは積極的なことです。私たちは待つことはとても受身的であって、
自分の全く手の届かない出来事によって決定される希望のないことのように思われがちです。けれども積極的に待つというのは、自分のいるところで何事かが起
こっていることを確信しながらそこにいたいと願い、今この時にしっかり自分自身を置くことです。待ち望む人は、マリア様のように今のこの瞬間に自分を見据
え、この時こそ自分にとってかけがえのない時であることを神様に信頼する人です。どうか私たちもマリア様の生き方に倣って忙しさという衣服を脱ぎ捨て、神
のことばを受けとめ、待つこころを大事にしながらクリスマスを準備したいものだと思います。