深夜、よくトイレに起
きます。多いときは3度。午前4時、また目が覚めました。まどろみの中で、「年だな」と思います。高血糖、高血圧、メタボといった言葉が去来したかと思う
と、深い厭世観の中で突然、老いの自覚がこみあげてきました。「ああ、黄昏が見えてきた。思えば目的意識のはっきりしない、怠惰な日々を送って来たな」
と。深い溜息と共に悲しみにうずくまって、また寝入ってしまいます。「暁静かに寝覚めして 思えば涙ぞ抑へ敢えぬ はかなくこの世を過ぐしては いつかは
浄土へ参るべき」。「我らは何して老いぬらん 思えばいとこそあはれなれ・・・・」。
一夜明けて今日から11月。今月は死者の月です。死者の日の起源は、11世紀のクリュニーの修道院長であったオディロンにあると言われます。或る男が聖
地からの途次、大時化にあって或る孤島に打ち上げられました。彼はその島に暮らす一人の修道士に会って、岩場を示されました。その岩の隙間から煉獄の様子
が伺えるというのです。巡礼者が覗き込むと、煉獄で苦しむ人々の声が聞こえてきました。また悪魔のぼやく声も聞こえてきました。「死者のために祈られる
と、死者の魂が早く天国にいってしまうので、わしは不愉快だ」と。巡礼者は故郷に帰ると、オディロンにその話を伝えました。そこでオディロンは11月2日
を死者の日と定めて、死者のためにミサを献げる習慣が生まれたのだそうです。
ある牧師さんがこんなことを書いていました。「永遠のいのち・・・どんな命か分かりません。そして、ほんとうにあるのなら与りたいものです。わかってい
るのは、私のいのちは生かされてあるもの、だから生かされるままに生きるのが生の本来のありよう。そして本来的なものは生と死を越えて永遠ですから、もし
永遠のいのちがあるなら、それは私が本来の姿であるときの、深い生の落ち着きのことでしょう。それは永久に生きることではなく、異議を立てずに今を生きる
こと、今との和解、存在との和解です」と。
今、私にはこの言葉がよく分かります。私本来の姿で、深い落ち着きのうちに生きていきたい。死んでのちではなく、今、永遠のいのちに生きたいと思いま
す。でも、どうしても頭に角が生えてしまって、異議を立てずに一日たりとも過ごすことはできないのです。尽きることなき煩悩の私・・・・。だから私は、煉
獄の浄めの火から免れることはできないでしょう。死者の救い?それは他ならぬ私の後生の一大事です。
嗚呼、主よ、私を憐れんでください!