信心業にはロザリオの祈りとか、十字架の道行きの祈り、或いは聖体訪問、イエスの聖心の
信心それに聖母マリアや聖ヨゼフに対する信心など各時代、各地域によっていろいろあります。それらは伝統に基づいたもので、多くのものは今も教会は薦めて
います。レデンプトール修道会の伝統として絶えざる御助けの聖母の信心があります。
ところで、「信心業をすることが絶対だ!!」と思っ
ている方がいらっしゃるかもしれません。たとえば、今月はロザリオの月なのでロザリオの祈りをしなければならないと考えている方がおられるかもしれません
が、信心というのは、そのようなものではありません。信心というのは信仰を深めるための一つの手段ですし、方法でもあります。その人にとって、そのことが
信仰を深めるのに助けになるのであれば、それはすばらしいですし、もし自分に合わないのであれば、しなくてもよいわけです。たとえば、毎日ロザリオの祈り
をしなかったとしてもそれは罪になりませんし、また救われないということにもなりません。信心というのは、まさにそのようなことなのです。
ところで、最近思うのですが、外国に行くと、特にルルドやローマなど巡礼地に行きますと安価なロザリオが店に並んでいます。1ユーロー以下です。安物だけ
あってすぐに壊れてしまいます。そして、また新しいものを買ってそのロザリオで聖母マリアにロザリオの祈りを捧げます。壊れたロザリオというとゴミ箱行き
か、或いはゴミとして燃やされます。古いロザリオを捨てることは罪とも思いません。壊れたロザリオを捨てることによって、信仰も捨てたわけでもありませ
ん。そのロザリオに神の霊が入っていたわけでもありません。新しく買ったロザリオでマリア様に祈っていますので信仰上も何の問題もないわけです。聖具の使
い捨てです。しかし日本に於きましてはそういうわけには行きません。壊れたからといってむやみにゴミ箱には捨てられません。そのロザリオの中に聖母マリア
の魂がはいっているわけではありませんが、むやみやたらに捨てることはできません。他宗教の仏教に於きまして「ブディスト・ロザリー」と呼ばれる数珠は壊
れてもむやみに捨てられないそうです。近くのお寺で数珠供養をしてもらうそうです。日常使う裁縫の針でさえ、折れた針を捨てるのではなく、大切に使われた
針に感謝して針供養をするそうです。キリスト教も日本人の心を大切にしながら、信心用具を大事にして信仰を深めたいと思います。そのためにはすぐに壊れる
ような信心用具を買わないことのように思います。物をたいせつにする秘訣としてすぐ壊れるようなものは使わないことです。
しかし、もし
壊れてしまった場合、仏教のようにカトリックは聖具に対して供養はしません。また仏教などでは、仏像に対して「魂を入れる」ということをします。しかし、
カトリックでの祝別では、ロザリオなどの聖品を用いて祈ったり、或いは身につけたりすることによって、神様の恵みがありますようにと祈ることです。そし
て、それは、その用途に従って用いられることが前提とされています。たとえば、ロザリオを持っていても、壊れていて、祈ることができないのであれば、それ
はもうロザリオの持っている本来の用途とは異なっていることになります。だからといって、ロザリオなどの聖品を粗末に扱うのも問題かと思います。そこで、
聖具や聖品の廃棄の仕方になるのですが、その聖品がもうその用途とならないような形にするということがまず最も大切なことです。
まず、
紙類の場合でしたら、許されるならば、庭などで焼却することが望まれます。また陶器などでできている場合、そのご像などの原形をとどめないほど粉々に壊し
てしまいます。また、金属類は、可能ならば、どこか土の中に埋めてしまうことが良いとされています。これらのことに共通するのは、その聖品が本来の形や用
途とは違ったものになることを意味しています。本来の形や用途と異なった場合、それはもう祝別の効果はなくなったとみなされます。ですから祝別されていな
いものとみなされるのであれば、その物はもう他の物と同じことになるわけで、ある意味もうゴミとして処分することも可能になるわけです。
しかし、気をつけなければならないのは、今までお話ししてきたのは、その祝別された聖品や聖具が「破損」した場合のことです。
決していらなくなったり、邪魔になった物を捨てるということではありません。も
し、どうしてもいらなくなったり邪魔になったときには、誰か他に必要とする人を探して使ってもらうのもまた一つの方法ではないでしょうか。そのようにし
て、少しでも物を大切にし、最後までちゃんと使っていくことこそが、神様の望まれていることだと思います。私たちの身の回りを見渡して、もし粗末に扱われ
ている物がないかどうか確認してはいかがでしょうか。