もうすぐ夏休みに入りますが、この時期は少し考えるゆとりがあると思います。
私は毎日TVのコマーシャルを見ることを楽しみにしています。
見ながら色々の疑問を持ってしまいます。
特にお金について色々考えさせられます。
30数年前にディディエ神父様の「わかつことを知る」という記事がカトリック新聞に掲載されました。
この記事を読んで、皆様はどう思われますか?
ある貧しい身寄りのない女の人が自分の家で息を引き取った。
非常に貧しいお葬式が、社会福祉貧民救済の人々の手に寄って行われた後、市役所の人が故人の財産目録を作りに来た。
たいした持ち物はないのでそれはすぐ済んだ。
マットレス一つ、テーブル一つ、それは余り値打ちのない道具がいくつか・・・・。
それからもう少しで見落としそうになったカバンが一つ、このカバンの中には550万円が入っていた。
それに添えられた遺書には、この僅かな財産はすべて町の社会福祉に寄付するようにと書かれていた。
「彼女はわれわれの町のため、一生の間倹約していたんだね、まったく!必要な物さえ切り詰めて・・・・」
「なんと慎ましいことだろう!彼女は感謝さえも受けようとしなかったわけだ。これが本当の善意というものだ、自分の手柄のためにやったのではないのだから・・・。」
皆はこの貧しい年寄りの善意を賞賛し感謝した。
ただ一人の保健婦は違った気持ちを持っていた。
それを彼女は役所の人の前で言ったので市長はその遺書について討議するために会を開いた。
「もし私がペトロだったら天国の入り口でその寄付者に聞くでしょう。あなたの家のすぐそばに住んでいた家族を覚えているでしょう?彼等の家は台風でひどくやられましたね、しかも火事ではなかったので保険金が入らなかった。それで全く破産して負債に悩まされ、子ども達は学校をやめた、あなたは彼等の隣にいてこのお金を持っていたのに、何故ほっておいたのですか?」
ここに、自分の金銭を持って死のうと思っている人達の為の小話があります。
ある日、一匹の魚が雌鳥に会って彼女に非難がましく言いました。
「私はあなたと違って人間の食べ物として全部与えている。私の全てが利用されている。ところであなたたちはそうはいかない」すると雌鳥が答えました。
「だけどあなたは、人にとられてから与えるのではありませんか。しかし私は生きているうちに、私の卵を日々与えるのですからね」
(人間がもう少しこの雌鳥のようであったら・・・・)